プロローグ 魔女との出会い



 ルベンは麦刈りの日に野に出て、野で恋なすびを見つけ、それを母レアのもとに持ってきた。
ラケルはレアに言った、「あなたの子の恋なすびをどうぞわたしにください」

旧約聖書 創世記 30章より



「媚薬に関心が御有りですか?」
 
 突然かけられた声に、小桜菫(こさくらすみれ)は少し驚き、そしてゆっくりと振り向いた。菫が振り返った視線の先には、髪の長い女性が立っている。

 菫の愛くるしい大きな瞳が不安そうに揺らめく。美しい顔立ちでショートヘアの髪。その頬はわずかに赤く染まっていた。

 菫は言葉に窮しながら曖昧な返事ともつかない返事をする。

 そんなやり取り。それが全ての始まりだった。



 彼女。小桜菫は、休日に買い物に出かけていた。そして商店街の片隅で偶然その看板を見つけた。

 占い処、ヒーリング神秘学のお店、《魔女の隠れ家》。いつもはこんな看板あっただろうか? 少し暖かくなった初春の空気を吸い込んで。菫はその地下への入り口に降り立った。

 きっかけはただの興味本位であった。

 暗い、どこか別世界への入り口を思わせる。古びたドアを開ける。ドアは少し軋んだだけで案外あっさりと開いた。

 入り口をくぐる。

 店内には所狭しと怪しげな物品が置かれていた。お香の香りがほのかに香る店内。その壁際は本棚に埋め尽くされていて、豪華な装丁を施された分厚い書物が収まっていた。どうやら儀式魔術や占いの本のようだ。
フロアの中心部には香や香炉の類、儀式用具が奇麗に並べられ、まるで西洋文化の展示室さながらである。

 店内には菫以外、誰もいないように見えた。

 菫は売り場にある見たこともないような不可思議な物品の数々に見入っていた。

 そして菫は件の棚を見つけてしまったのだった。

「失礼、この棚を熱心にご覧でしたので声をかけさせていただきましたの」

 髪の長い女性は落ち着いた口調でそう述べた。



 菫は思わず顔を紅潮させて、うつむいてしまった、それもそのはず、菫が食い入るように見つめていた棚は、古今東西の様々な媚薬が置かれていた棚だったのだ。

 菫は今年で三十路の時期を迎えたとはいえ、うら若い未婚女性であることには変わりない。それが媚薬をしげしげと眺めてるところで声をかけられたのだ、恥ずかしくならない方がおかしい。

 媚薬の棚には現在の医薬品から精力剤、見たことのない植物から、何に使うのかわからない性具らしきものまでが、簡単な説明書きと共に置いてあった。その一つ一つを手に取って、夢想に明け暮れていたのだ。そんな姿を見られてしまったのだから、顔から火が出そうな思いだ。

「よろしかったらご案内いたしましょうか?」

 菫は即座に断ろうと顔をあげて店員の顔を見た。

 ――そして魅入った。――

(うわ……すごい綺麗な人。それに優しそうな瞳の……この瞳……なにか)

 ぼうっと、なぜかぼうっとした感じになってしまう。恥ずかしいからだろうか?

 長いシルクのような黒髪がゆらゆらとゆっくりたなびいている。大きな黒い瞳はまるで心の中まで覗き込んでいるように、澄んだ輝きでこちらを見つめている。

「わたくしこのお店の店主で天想寺玲愛(てんそうじれあ)と申します」

 天想寺玲愛。その名前には聞き覚えがあった。有名な女性誌に本格的な占星術(せんせいじゅつ)のコーナーを持つ人気占い師。元々は陰陽寮(おんみょうりょう)に属して歴の管理に携わっていた貴族の家柄らしい。

 明治に陰陽寮が政府から切り離されたのを契機に、西洋の血筋と神秘学の技法をその家系に持ち込んで、平成の現在、天想寺家は日本の西洋占いの大家であるらしい。少なくとも雑誌にはそう書いてあった。

 ほんのりと西洋人の血が混じった、目鼻立ちのくっきりとした顔立ち、ほっそりとした身体を黒い緩やかな(ローブ)で包んでいる。背丈は菫より少し高いだろうか、やや見上げるようにその瞳に視線を送ると、なにやら吸い寄せられる様な気分になる。

「私は……小桜菫って言います」

「菫さん……良い名前ですわ」

「ありがとうございます。えっと……その」

 菫は言葉を(にご)した。興味なんてないとは言い難かった。なぜならば菫は数分間にわたってじっくりと棚を物色していたのだ。どこから見ていたのだろうか? もしかしなくても多分、入店したところからだろう、ここには菫しか客はいないのだから。

「今はだれも見ていないから、恥ずかしがることはないですよ。それに媚薬に関心がある若い女性は、決して珍しくないんですから」

「そう……なんですか」

「こういったお店ですから、お客様の情報は一切外に出しません、安心してくださいね」

 その言葉をすんなりと信じられた、この人には(いや)しい感じが一切なく、プライドが高く口が堅そうだ、菫はそう思った。

「よろしかったらこちらのカフェエリアでゆっくりお話しをしませんか?」

 そう言って玲愛は店の片隅のカウンターを手で指示した。



「媚薬というものは古今東西で研究されていて、様々な薬品や食物、生薬が媚薬として使われていましたの」

「リンゴ、ザクロ、トリュフ、蜂蜜酒、動物の性器、マンドラゴラ、コーヒー、お酒、など様々ですわ」

「海外の珍しい食品等がしばしば媚薬と紹介されて売られていましたのよ」

 天想寺玲愛はカフェエリアのカウンター越しにゆっくりとしゃべりだした。頼んでもいないのに不思議な良い香りのするお茶を出された。これはなんのお茶だろう? 菫はそう思った。

 ハーブティーの類に蜂蜜かなにかで少し甘みをつけてあるのだろうか? 爽やかなバニラ系の香りがしてほんのり甘い。一口すすったらなんだかひどく落ち着いてしまった。

「最近の媚薬では主にシルデナフィル系の男性器の勃起を改善する薬品等が有名ですね」

 天想寺玲愛はそう続けた。それだったら菫も知っている。バイアグラと言う薬品が有名で、一時期メディアでもてはやされた薬だ。副作用で心臓発作を起こした事件も有名だった。

 シルデナフィルは元々は狭心症の治療薬として開発されたのだが、効果のほどは芳しくなかった。しかし実験の中止をしようとしたときに被験者が薬の返却を渋った。理由を問いただしてみるとわずかだが陰茎の勃起を助ける作用があった。それを被験者は知っていたのだ。

「他には滋養強壮効果のある食品サプリなんか最近の流行ですわ」

「アイスに使われるバニラも少量ですが男性フェロモンに近い成分がありますの」

 そう言っていくつかのサプリや薬品をカウンターの上に並べていった。

「こういった怪しげな商品はいつの時代もあって、わたくし達がやるみたいな怪しげな商売に使われてきたのよ」

 そう言って玲愛はクスクスと笑った。つられて菫も笑みをこぼしてしまう。どうやら自分の商売が怪しげだという自覚はあるらしい。

「まあ。話の種くらいの、軽い気持ちで聞いてくだされば結構ですわ」

「ええ……ちょっとだけ興味もありますし。続けてください」

 菫はこの占い師の話を聞くつもりになっていた。

 別に媚薬がほしいわけではない。ただなんとなく女の喜びを知らない、自分の閉じた世界を、この薬達が少しだけ変えてくれるんじゃないかと、そう思ったのだ。

「媚薬にもいくつかの種類があります、勃起機能改善薬は男性のお薬ですので菫さんには関係ないですわね」

「まあパートナーに飲ませるのでしたら、お勧めのシルデナフィル薬がございますけど」

 菫はフルフルと首を横に振る。残念ながらそんなパートナーはいない、いても飲ませるかどうかは微妙だ。

「そうですよね」

「変に若い子にこんな薬を渡したら、自信を失いかねませんもんね」

 そう言って玲愛はまたクスクスと笑った。そんな使い方もあったか。菫は微妙な表情でそれを受け取る、見知った顔の男の子の姿を想像して、思わず愉快な気持ちになった。

「女性用の媚薬ではないのですけど、カンジタ膣炎の治療薬でバイアグラのファイザー社から出ているフルコナゾール系のお薬が、女性の膣を濡れやすくする作用があるそうで、女性用バイアグラなんて言われてますけど」

「お試しになってみます?」

「えっ! あのっ! えっと」

 確かに棚を眺めているときに、媚薬を飲んで乱れてみたいと言う欲求がなかったわけではない。むしろ徹底的に乱れてみたかった。しかしいざ実際に勧められると迷ってしまう。

「良く濡らした方が男女共に快感の度合いは高くなりますが。ふふふっ……ちょっと眉唾なお話ですし。そう簡単には決められませんよね。ああっ。お話だけ聞いてくだされば結構ですよ。もしお薬が必要だと思ったらそうおっしゃってくださいね」

 菫は顔を赤くしてうつむいてしまった。

 自分はなぜこんな話を聞いているのだろう。そんな疑問も頭をよぎる、だがいつもは感じることのない、抑圧された性への欲求が好奇心となり、ついつい話に聞き入ってしまうのだ。

「媚薬と言うものはいつの時代もビジネスになるようで、こんな怪しげな薬もございますの」

 そう言ってしゃれた形の小瓶をいくつか出した。どれもパッと見は化粧品の瓶のようで、中には水の様な液体が入っている。これは英語なのだろうか? どれもアルファベットで文字が書いてある。

「催情水、あるいは催淫水と呼ばれる女性用媚薬ですわ」

 催淫水。その響きに少しだけ胸がドキドキする。本当に自分はエッチな薬が欲しいのだろうか、少なくとも興味だけはしっかりある。胸の高鳴りがそれを示していた。

「原材料はアメリカやフランスのよくわからない物質なの、生薬だったり科学合成だったりね」

「辞書、事典で調べても。グーグル、ウィキペディア、様々な検索エンジンで検索してみても正体不明、出てくるのは怪しいお薬の広告だけ」

「そして決まって副作用なしで無味無臭なのよ」

「そ……それって」

 つまりインチキ薬と言うことだろうか? ちょっと欲しかった気持ちが急速にしぼんでいく。

「そうね、実際に女性の性欲を増進させる成分は今のところフリバンセリンと言う成分くらいね」

「元々は抗鬱剤として作られたお薬なんだけど、女性の性欲増進効果が臨床試験で認められたそうよ」

「まあ、少なくともこの催淫水とやらの多くには、フリバンセリンは入ってなさそうだけど」

 菫は小瓶を手に取り、拍子抜けした表情でそれを見つめた。

 薬効の有無はともかく。こんな水があるくらいなんだから、やっぱり媚薬を求める人の気持ちっていうものは確かにあって。こんなビジネスが成り立つくらいには需要があるということか。

 そういえば先ほど話題になったバイアグラも国内の臨床試験を行わず。アメリカの実験結果を認証してスピード認可されたのではなかったか? スピード認可はほとんどないと聞く。あの認可もきっとこんな薬でビジネスをしている業界からの圧力ではないのだろうか? 褒められた話ではないけど、こういった媚薬の様な薬品には、やはりしっかりと人間の欲望が付いて回るということなんだろう。

「そのフリバンセリン自体はまだ試験段階で、今のところ市販されているお薬はないわ、まあ手に入らないわけではないですけど」

「でもこの催淫水だって立派な性の小道具よ」

「だってこの水を飲めば、どんな貞淑な淑女だって乱れることが”許される”のよ」

 そして一呼吸おいて、はっきりとこう言った。

「だって薬のせいですもの」

 そう言うことかと菫はうなずく。本当は乱れたいのに心の障壁で縮こまってしまう、そんな気持ちを解放する口実と言うことだろう。

「大昔はこういったことを魔女や呪術医や怪しい商人の媚薬の責任にしたのよ。偉い人が自分の判断の責任を神様のせいにしたみたいにね」

「そう言った意味では、この水達も心に影響する魔術と言えなくもないわね」

「魔術……ですか?」

 魔術。あまり聞きなれない言葉だ、それもそのはず、この現代において、ほとんど滅びたものである筈……ではなかったか?

「そう……魔術よ」

「菫さん……あなたが本当に求めているのは、魔術的にあなたの女の喜びを開眼させてくれる。正真正銘、本物の媚薬じゃなくって?」

「本物……ですか?」

「そう。こんな現代科学に寄りかかってまで生き残っている愛の秘薬の失敗作ではなくってね」

「そんなお薬が……あるんですか?」

 急速に胸が高鳴る。そんなお呪いのようなものに何を期待しているのだろう。

 口の中がカラカラに乾く、未使用のままカビの生えたような子宮の奥底でトクトクと打擲音が聞こえる。

 お腹の底で何かが弾けたがっていた。

「恋なすは香り そのみごとな実が戸口に並んでいます。新しい実も、古い実も 恋しい人よ、あなたのために取っておきました」

 そして菫の目の前に一つの小瓶が置かれた。


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